LAURA NYRO 『ANGEL IN THE DARK』

そのアーティストにとってラストアルバムとは結果的に最後になってしまった場合とアーティスト本人が[最後になるかもしれない]と思って制作した場合とでは違ってくると思う。

『ANGEL IN THE DARK』はLAURA NYROのラストアルバムである。

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LAURA NYRO『ANGEL IN THE DARK』2001年

まず始めにモノクロのジャケ写に注目していただきたい。上向き加減で陶酔した表情を浮かべているLAURAの横顔。LAURAの活動における初期、アルバムでいうところの『More Than A New Discovery』~『Gonna Take A Miracle』までの5枚で一番強く感じるのはLAURA自身による自己完結性、陶酔感である。果てはそのことが聴く者の心を激しく揺さぶることにつながるLAURAにとっての象徴的なワンシーンだ。

1994年2月、22年ぶりの来日を果たした際、アルバムの構想は既にあったらしい。“Luna Mist”という自らのレーベルを立ち上げ3枚アルバムを制作するという計画。ひとつはすべて新曲で構成されたオリジナルアルバム。もうひとつは『Gonna Take A Miracle』のような全曲カバーで構成されたアルバム、三つめはピアノの弾き語りとコーラスのみで演奏されたLIVEアルバム。1994年帰国したLAURAはまずカバーアルバムの制作に取り掛かった。そして翌95年にオリジナルアルバムのレコーディングを行っている。『ANGEL IN THE DARK』はLAURAの死後、その2枚を1枚にまとめたアルバムなのである。

LAURAが卵巣癌に侵されていると診断を受けたのは1995年6月だといわれている。オリジナル曲のレコーディングを開始するのが同年8月。告知を受けてから二か月後のことだ。

ファンにとってはよく知られていることだがLAURAは生涯、LAURA NYRO名義の作品が1度も売れなかったヒット作のないアーティストである。CDショップの棚にLED ZEPPLINと並んで過去のアルバムが多数売られているなんてことはLAURAの現役の頃からすれば考えられないことだ。しかしひとたびLAURAの手を離れ、他のアーティストがLAURAの曲を歌うと軒並みトップテンヒットにつながった。これはどういうことだったのか。それはLAURAのあまりに個性的過ぎる歌唱に原因があったと考えられる。

LAURAの地声は低くて声域というのは実はそれほど広くなかった。しかしファルセットが地声と同じくらいのパワフル声量だったので感性の赴くまま地声とファルセットを使い分けていて、初期の頃のLAURAはこの様子があまりにもエモーショナルに響くおかげで万人に受け入れられるようなシンガーではなかった。好き嫌いが極端に分かれてしまうタイプだったのである。1972年の初来日の時、日本の評論家から[歌は上手い方ではない]と批判されたということだ。LAURA本人でさえ晩年は若い頃のスタイルがあまり好きではなかったようだ。40代になってから作った曲をLAURAの好きな薔薇の花に準えて自ら“薔薇の時代”と呼んで気に入っていた。

『ANGEL IN THE DARK』に収録されたカバー曲はLAURAの音楽的基盤だったR&B、ソウルミュージックの名曲ばかりでオリジナル曲との親和性も高くピアノアレンジの部分ではLAURAの好きなコード進行で埋めつくされている。晩年のLAURAのLIVEを聴けば分かる通り“自然な流れ”というものを凄く重視した作りになっているのだ。今にして思えばそれはLAURAの死生観に関わることだったのかもしれない。アルバムの一曲ごとに臨む姿勢みたいなことでいえば決して奇を衒わず静かにじっくりと今出来うる限りのベストを尽くしたという印象がある。

オリジナル曲の歌詞の面では最愛の母親や息子のこと、音楽に対する思いなど今迄を総括するような内容でありとりわけ注目したいのが表題曲の「ANGEL IN THE DARK」。LAURAはこの曲について[自分が心の頼りにしていた母親や祖父、既にこの世を去った人達に向けた曲]と話している。この曲のメッセージとはそれだけだったのだろうか。


Angel In The Dark(Live)

アルバムラストに配された「CODA」のシークレットトラックは(動画では4分4秒から始まる)MARTHA REEVES & THE VANDELLAS「COME AND GET THESE MEMORIES」のカバーなのだがこのピアノアレンジはLAURAが晩年ずっと封印していた自身一番の代表曲「SAVE THE COUNTRY」のタッチを彷彿させる。弾むようなイントロと勢い良く歌うメロディーについて晩年のLAURAは[速くて若い曲]といい敬遠していた。にも関わらずこの曲調をこのアルバムのためにレコーディングしていたというのは...。


Coda

 

上記のことを踏まえて考えると胸に迫るものがある。

ここからは個人的な想像だが溺愛していた息子の存在など考え合わせるとLAURAの気持ちとしては[絶対病気に打ち勝ってみせる、克服してみせる]という強い意志はあったと思う。しかし一方でLAURAの母親はLAURAと同じ49才で同じく癌で亡くなっている。LAURAはこのアルバムについて体の回復を信じていながら心のどこかで[最後になるかもしれない]と思っていたふしが窺え、そんなようなことが感じとれてしまうのが自分としてはたまらなく切ない。人は物心ついた時からいつか死ぬと分かってはいてもそれがいつになるのか分からないから恐怖心を持たずに生きて行ける。であるなら命の期限を知ってしまった時どのように振る舞えばいいのだろうか。LAURAほどのクレバーでセンシティブな感性を持った女性が自分の死期を悟った時にとった行動は自分がそのような状況に置かれた時の手本になると思っている。LAURAが亡くなってから4月8日で22年が経過した。ずいぶん長い年月が経ったけれど今でもこんなにも彼女が生きた痕跡を生々しく感じている。

今日のこの日に相応しい曲の歌詞を引用する。LAURAが18才の時にレコーディングしたファーストアルバムから「AND WHEN I DIE」の一節。

      And when I die

           and when I'm gone

           there 'll be one child born

           and a world to carry on

   私が死ぬ時

   私が逝ってしまう時

      一人の子供が生まれる

   そして世界は巡ってゆく